昭和五十六年十二月十六日 朝の御理解
御理解第二節
「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない」
あの世までも持って行かれ子孫にも残ると言われる程しのものは神徳だと。その神徳を信心すれば誰でも受ける事が出来るというておられますが果たしてあの世にも持って行かれこの世にも残しておけれるようなものを頂いておる人がどの位あるだろうか。
昨日は前夜祭に引き続いて富久信会で御座居ましたから、富久信会のお話をさせてもらった事ですけれども、お取次を頂いてどうぞお願いを致しますというておかげを受けるという人は沢山にあるけれどもね、それがみんなお徳を受けたという事にはならない。それが信心ではない。お参りをしよるから信心、お取次を頂きよるから信心という事ではない、ね。もう兎に角、信心させて頂いとればどれだけ信心が血に肉になっていっておるかという事は、年を拾うに従って有難うなっていく、信心すれば一年一年有難うなってくる。信心は位がつくものじゃとも仰るように、これが位ともいうのであろうか、これが有難うなっていく印だといったようなものが出けてなかったらこんなに淋しい悲しいことはないよというて昨日話した事でした。
沢山私がそれを知ってるんです。段々年を取って熱心にした方達が、いうならば有難うなっていってない、ね。いわゆる信心の位を頂いてない、いわゆる孤独である、ね。年を取るに従って淋しゅうなる。これではあの世に持っていきようもなからなければ残しておきようもないですね。あの世に持って行けるというのは、それこそ一年一年信心をすれば有難うなると仰せられるその有難いというものだけが持って行けれるのだと、ね。
昨日、富久信会の一番最後に信徒会長が、まあ最近外部関係の御用ばかりさして頂いとりますから、先だってからも本部で全国のまあ幹部の信者を集められまして、教監がそれこそ頼むように言うてお話をなさってという事を話しておりましたが、ようやく最近そのお取次を頂いてうんぬんというのじゃなくてね、もう兎に角一人一人が教祖の教えを守っていく以外にはありませんと力説したという話をしています、ね。
教祖様の御教えを本気で一人一人が守っていく以外にはありませんと、ね。そこから生まれてくる力、お徳、その力に徳による所の潤いでありおかげでなからなければ本当の事じゃありません。只お取次を頂いてどうぞ記念祭ですから、こんな事ですからどうぞというて成程おかげは頂いても、それは今日の御理解から言うとあの世に持って行けれるものではないという事、ね。それこそ教監が頼むようにお話になったというそのお話がです、もう兎に角教祖の御教えを行ずる他ありません、守るより他にはありません。はぁそうだなぁと皆んなが思うた。そしてそこで又戸惑う事はね、どういうようないうならば頂き方をしたら教えが身に付くだろうかという事である、ね。それも難しい事を言うちゃでけん。誰でもその気になりやぁ御神徳が頂けるような信心、それは教祖の御教えを守る他ないが、その守る教えをどういうふうに守ってどういうふうにそれを一段一段位にしていくか、一年一年有難うなっていくものにしていくかというその手立てを解いてくれる者がないという感じでありました。
そりゃあ成程教典がこうやって御座いますからそれをまあ空暗記しておる人でもありましょうけれども、この御教えのもう兎に角お徳が受けられる所まで掘り下げるという頂き方は大変な事なんですよ、出来んです。ね、二、三日前も頂きましたが、娘が嫁にいく時に親が鏡を持たしてやるね、それは決して顔を綺麗にするばかりじゃない。辛い苦しい時があったら鏡を立ててみてね、人に悪い顔をみせんようにして家を治めていけよという御教えですから、あーそうかなと苦しい時には鏡をみて心で泣きよっても顔でニコニコ笑うてというような風にだけ頂いたらもう、この御教えはお徳は受けられんです。そんなら信心がなかったっちゃ辛抱できるです。そうでしょう。
だからこの御教えをならちょっとお徳を頂ける頂き方をさしてもらうと、いわゆる最後には黙って治めるというね、治めるという字をこう分解するとシ(サンズイ)偏にムロとある。シ(サンズイ)という事は、自然に起きてくることを一切無口、黙って受ける、これが信心の基礎台、土台になる。無口とは台という字になりますね。土台の台。
そして段々分からして頂く事は、いうなら腹が立ったり悲しかったりね、悔やまなおれないような事柄のその事柄の事態がね、悔やむ事でも腹を立てる事でもない、むしろ御礼を申しあげなければならない事であるということを分かってていく。合楽ではここを解くわけですね。合楽理念はね、一切に御の字をつけてとかね、御事柄としてそれを頂いていく、それこそ喜んでそれを受けていくというのである。その受け方もです、いわゆる天地日月の心を引用してまいりますと、本当にそうだな、容易う楽しゅう有難く行じていけれる手立てが合楽にはあるわけです、ね。
確かに今教団でいうておられる、もう兎に角、只お取次を頂いておかげを頂くだけじゃいかん、もう教祖の御教えを守るより他にありません。それをまあ力説される。あーそうかな、それじゃもうこりゃ改めて教祖の御教えを頂き直さなきゃならんというても、ほなこの表面にでておるところだけを頂いたんではおかげにも徳にも私はさほどにはならんと思う。
神意がわかりね、御神意を分かるからそれが御神愛という事がわかるのです。だから、御神愛とわかったら合掌してうけていかなければおれんのです。ね。合楽では、その教祖の御教えをまあいうなら縦横無尽にです、いうならば、どんな人でもわかるように、又行じようと思えば行じられるように解いてあると思うです。
ところがです、これも昨日の富久信会で申し上げた事でしたけれどもね、昨日はお商売人の方達のまあ集まりなんです。果たして合楽ねいうなら商売は合楽理念をもってする他ない、百姓は合楽理念をもってする他ないと皆がこう申します。日々お取次を頂いて、今日もどうぞ合楽理念の実験実証さして下さいというて願いながら果たしてどれだけ実験しておるだろうか。
○○はいわゆる商売は合楽理念をもってする他はないというて、実際はどうぞ今日もよく売れますように、お使い回しを頂いて忙しゅうお使い回しを頂くように、お取次を頂いて商売を一生懸命したらもうそれで合楽理念を行じておるような思い方をしておるのじゃなかろうか。いやちょっと位は、ほならここは土の心で、ここは
天の心でというふうにまあ頂いたにいたしましてもそれはそのちょっとの間であって、それが血に肉になっていないような事でおかげを受けておるのは合楽理念に基づくところのおかげではない。それでは有難くない。それではあの世にももって行けるというものにはなれない。合楽理念が血に肉にならせて頂くといよいよいわば有難いというものは、それこそ年勝りに有難うなってくる。勿論、年勝りにおかげ頂いていくという事は、年勝りにおかげの方もそれに伴のうてくるというのでなからなければ、年を取るに従って淋しゅうなる。こんな悲しい事はないと。
まあ、私は昨日富久信会でまあ申しました事でしたけれどもね、それにはね、やはりそのおかげを頂き続けるというかね、ちっと商売が忙しくなってくるともうちょっと忙しいからというて口実になって信心をおろそかにする。さあ売れんというたらもうそれこそすかたんぼううって神様にお願をする。どうぞどうぞと言うてお願いをする。
一昨日ここの福岡でクラブアンナというクラブを経営しとられる方が、熱心にこりゃもう自分の身体の上でおかげを受けて、それからお商売の上にもおかげを頂いて段々繁昌のおかげを頂き、今度又隣に一軒スナックを作られた。そいで開店のお祭り、御礼のお祭りをしてくれというのでここから先生方がまいりました。そしたら驚いたのに、そのスナックの名前が雨量という雨の量ち書いちゃる、スナック雨量。ほう難しい名前がついたですね、ち。はあこりゃ親先生から頂いたんですけんもうそのまま看板にして掲げてある。私も確かにその事を頂いた時に、頂いたのはその漢字で雨量、雨の量と頂いたんですけれども、これはカタカナかひらがなかに直さにゃでけん、どうかそこからヒントを得てから作ってからよかていというふうに申しておりましたけれども、もう親先生が書いて下さったちゃからもうそのまま看板屋にやっているわけです。なら看板屋はそのまま雨量と書いてスナック雨量、スナック雨量とこうやって私もそりゃ聞いたり読んだりしよるうちにハハァーこりゃ素晴らしいお名前だなあと、変わっとって一辺聞いたら忘れられんごた名前だなあ、字を見ただけでもスナック雨量とね。時に頂いたその御理解がです、ね。雨量というのは雨の量という事であるね。それこそ日照り続きでね、何もかにも枯れあがってしまうような事ではいよいよでけん、というて雨量が多すぎてね、大水になったんじゃ流されてしまうね。ここん所にいわゆるバランスのとれた丁度よいおしめりを頂いて、ね。日照りもなからなければ、過ぎるいうならば大水もいらん、そういうおかげを皆が頂いていけよと、そこん所に信心のまあいうならプラスマイナスというか、自分の信心のバランスというものをですね、頂いていうならば、自分の信心の有難さに伴のうて表れてくる所のおかげを頂いていけよという事なのです。
有難さもいっちょん育ちよらんとにおかげで商売がどんどん繁昌しよりますちいう所には大水が入りよるとですばい、有難うならんなりに頂きよっとじゃからね。それではお徳にもならんです。あの世にも持って行けれるというものね、この世にも残しておけるというもの、それは神徳じゃ。神徳は信心すれば誰でも受けられる。信心とは拝む事でもなからなければ参る事でもない。勿論信心の内容として拝む事も一心に拝まなければならんね、お参りも一生懸命さしてもらわなきゃならないけれどもね、いわゆる教監がいわれるという兎に角教えを守る以外にはないとこういうのです。ね。教えを守らなければ血にも肉にもならん。そんならどういうふうに教えを頂くかというと、あまりにもいうなら平凡な表現で御教えがして御座いますからね、それを通り一辺に頂いてしもうたんではお徳にならん、それを深めさしてもらう、広めさしてもらう、いうならギリギリ神愛とわかるところまで頂かしてもらう教えというものはね。 只、鏡を立てて悪い顔を人に見せんという事だけが続いたのであっては辛抱力は強くなるかも知れんけれどもお徳にならんね。そこが分からしてもろうて、はあここは土の心でここは天の心でというような頂き方でね、それをまあ、昨日伊万里の竹内先生のお届けに御座いましたんですけれども、あそこに森という先生が幼稚園の先生がおられる。その森という先生の教え子のお婆さんになる方が森先生を尋ねて来られた。あーたこの頃竹内先生の所にお参りしよっなさる、金光様にお参りしよっなさるげながもう私の方にはもう嫁子がもう全然ものも言うてくれません。こりゃもうこげな本当にまあ悲しい雰囲気はないと、なんとかならんもんだろうかと言うて相談に見えたという。森先生が信心しよるから、そいで森先生が言われた事は、あーお婆ちゃんこりゃ嫁子だけが悪かっちゃなかですばいち、やっぱ自分を本当にわからしてもらうとですね、こりゃ嫁子のだんじゃなかった。自分が悪かったちいうごつなりますよち、まそれだけだったそうです。そしたらお婆ちゃんがそうどこじゃないちいうてもう帰られて、帰る道々嫁子じゃなかった自分が悪かった悪かったちいうて帰らしゃったげな、そしたげなもう今までかってない嫁子がもう手の手のを返すように物言うてくれたり良くしてくれたというので、昨日の朝、竹内先生の所へお礼言うて見えてる。御初穂持ってだからそのお届けをさせてあの、まあ頂きましたわけですけれどもね。いうならば例えば、教えが自分という者を見極めさしてもらう時に人ではなかったという事が分かっただけでそういう、それがならこれからもずーっと頂けていけるかどうかそれは分からんでしょう。そういう心の状態になった時だけかもわかりませんよ。又、嫁子ん悪かとこが見えてくるかもわかりませんよ。私はそういうような話を昨日は朝からその例をとってお話をした事でした、ね。
商売がちょっと不振になったというて一家中の者がもう人の悪口は絶対言うまいと決めたちね、そしたらおかげで又元の繁昌に戻りましたという話やらね、もうこん年は年末越されんと言うておった方がね、親先生が兎に角好かんもんば大事にしろと言われてね、本気でそれを大事にする気にならせて頂いたらもうそれこそ顔も見ろうごつなか物も言おうごつないと、そん好かん人が沢山な商いを世話してもらって年末はおかげで楽で、いや年末どころじゃない正月もこのままなら楽にいけますという御礼のお届けがあった。これは延岡の方です。あっ高鍋か。
これも昨日だからお話した事でしたけれどもですね、本気でなら教えを行ずるという事はそういう事なんですよね。例えば昨日その御理解をあの文雄先生が頂きよったげながあの神様からお知らせを頂いたのに、丁度ニワトリが卵をこうやって抱いておる所を頂いた。ぬくめよる所ば。だから、教えを本気で行ずるという気になったらもう手の手を返すようないわばほな、おかげになったちしてもです、それが本当のこんだ徳にならなければいけないでしょうが、おかげが徳にならなければ。そん為にはね、いうならニワトリが卵をこうやってぬくめよるとが年中立ち上がったり座ったり立ち上がったり座ったりしよるならどうですか、これは金光様の先生でもそうですよ。はあ、御結界をもう立ったり座ったりばかりする所では人は助からんです。ぬくもらんもんそれじゃ、孵化(カイワレ)んもんね。私、昨日文雄先生がその事発表しましたから確かにそうだなぁ、もうこうと例えば、ささやかな教えでも頂いたら丁度ニワトリが卵をうだいてぬくめる時のような気持ちでじっーとその教えを自分のものにしてしまうまで貝割れてしまうまで、お徳になるまでその小さい御教えひとつでも本気で徹して行ずる事だと私は思うたです、ね。
信心すれば、誰でもお徳が受けられるという事はそういう事なんであって、ほんなら教祖の今教監が言われるという、もう兎に角教祖の御教えを行ずる以外にない。ならどげな風にして行じますかというとその手立てを説く人がない。合楽では、それをならその気になれば誰でも頂けるようにお話が日々されておる、ね。そういうふうな話を頂きながらでもそれを行じようと、いや行じたとこはほんなちょっとそん時だけであってね、あとはそれこそぬくめはせずに又立ち上がっていくような事ではいつまでたってもお徳にはならんという事。年を取るに従って有難うなる、年を取る程位がつくものじゃといわれるようなね、それを楽しみに私は信心せやんいかんと思う。有難うなっていく事が楽しみの信心をひとつ頂かなきゃね、あの世にも持って行かれ、この世にも残しておけるとはそういうものだと思う。それを又神徳というふうにここでは言っとられる。信心すりゃ誰でも受けられるといわれるのに只、御神縁を頂いたというだけでは誰でも頂いてない事の事実を、私共はあまりにも沢山知っておる、ね。
そこで、ほんなら教祖様は嘘を仰っとられるかというと、決してそうではないね。本気で教祖様の教えをなら合楽で皆さんがです、合楽理念合楽理念というが、どれだけ合楽理念が本当に血に肉になったかと。商売は合楽理念をもってする他ないといいながら、只今日も繁昌致しますように、お取次を頂いてどこの仕入れに行きます、どこに売りに行きますという事は成程お取次を頂いていきよるけれども、その内容が果たして合楽理念に基づく内容でもってお商売をさして頂いとるかというのがまあ昨夜のお話ですけどね。
だから、それを本当にいうなら教祖の御教えをいわゆる教監が言われたという教祖の御教えを確かに守るより以外ないです。その守り方を私自身が守って実験して実証してこういうふうになりゃこうなるよと教えておるのが私、合楽理念だと思うです、ね。空事じゃない、私が実験して実証して皆さんにいうならば間違いないと言うてお伝えさして頂いとるんだから、皆さんも又間違いなくそれを頂き又はこなしていけれる信心修行がいるという事になるのじゃないでしょうかね。どうぞ。